釧路川沿いの広大な土地

釧路川沿いの広大な土地をご購入いただいたお客様のことが、「婦人画報」の10月号に載って、大きな反響がありました。

今回ご紹介するのは、そんな釧路川に近い弟子屈町市街地はずれの土地です。
この物件は典型的な河岸段丘の地形で、土地の高さが2段になっています。高い方の土地はJR釧網線と国道391号線に沿ってありますが、一段下がった低い方の土地に行くとそれら線路や道路からの視線は完全に遮られ、人工物が全く見えない自然だけの環境になります。上の段と下の段の間の斜面にも木があるため、遮断された感じがさらに増しています。釧路川も間近なので、川のせせらぎも聞こえます。釧路川の方は河川敷なので、車両が入ってくることもありません。時折、釣り人が歩くくらいです。

ドローンで撮影

春先にドローンで撮影したのがこちら。右から国道、JRの線路、未舗装の町道があり、高い方の土地、樹林帯があって、低い方の土地、河川敷と釧路川となります。

これがその下の段の全天空の景色です。どちらを向いても人工物は何も見えないことがおわかりになると思います。
この土地は本当に素晴らしい環境なのですが、夏の間、草が生い茂っていて、踏み込むことが出来なかったので、その魅力をこれまで十分伝えることが出来ませんでした。先日、自走式の草刈り機で草を刈ったので、ご案内しやすくなりました。
残念ながら温泉はありませんが、弟子屈の市街地からもほど近く、電気も水道もあります。
より詳しい情報はこちら(物件番号715)から。

摩周湖の透明度

本州の旅先で、「北海道の弟子屈町から来ました」と言っても、大概の人はピンと来ないようで、そんなときは「摩周湖のある町です」と言うと「ああ・・」とわかってもらえます。さすがに摩周湖の周知度は高いです。その透明度は日本一ですし、なんといってもある程度年輩のひとなら、布施明さんの歌う「霧の摩周湖」を知っています。そんなわけでかつて、町名を「弟子屈町」から「摩周町」に替えたらどうだという議論が起きたことがありました。さすがに良識のある人達が反対して、そんなことにはなりませんでしたが。「弟子屈」も歴史ある立派な名前で、それをただ単に知名度が高いから「摩周」に替えてしまうというのはあんまりです。ただ、JRの駅名は1990年に「弟子屈駅」から「摩周駅」に替わっています。そんなことで観光振興に効果があったのか疑問に思いますが。

さて、透明度日本一の摩周湖ですが、その透明度を測る調査の継続が問題になっています。これまでは国が予算を付けて実施していた透明度調査ですが、2018年を最後に国の予算が付かなくなったそうです。これほど環境問題が重要視されている時に、湖沼の透明度という重要な環境指標の調査をやらないというのは、国は何を考えているのでしょうか。甚だ疑問です。

湖沼の透明度などを調べる際、拠り所となるのが「理科年表」です。国立天文台が編纂し、毎年発刊される自然科学分野のデータブックです。私は子供の頃、この理科年表をみるのが好きでした。自分の住む町にある湖が、透明度日本一を誇り、かつては世界一を記録したこともあることを、理科年表をみながらうれしく思ったことを記憶しています。その他にも山の高さだったり河川の長さだったり、あるいは各地の気象データだったり、一種のランキング本をみるような楽しみがあります。今でこそ、インターネットで様々なデータベースにアクセス出来ますが、その昔は理科年表が頼りでした。

自然科学分野のデータは継続して取ることが大切です。結局、現在は弟子屈町を含め摩周湖周辺の自治体5町村(清里町・別海町・中標津町・標茶町・弟子屈町)が「摩周湖環境保全連絡協議会」を立ち上げ、クラウドファンディングも活用しながら摩周湖の透明度調査を続けています。摩周湖は神秘の湖と言われるだけあって、なかなかに人を寄せ付けない厳しい地形にありますから、その調査は容易ではなく、資金も掛かるのが調査の動画でもうかがえます。クラウドファンディングはこちらから。ぜひご支援をお願いします。

SL冬の湿原号

今年も「SL冬の湿原号」が釧路-標茶間で走っています。
例年なら、沿線は沢山の鉄道ファンで賑わうのですが、今年はコロナ禍のせいで人影もまばらです。冬のこの時期、観光業はオフシーズンで、その中でSLはかなり集客力があったはずですが、大都市圏が緊急宣言下の現状ではそれもかなわず、宿泊業・飲食業の方々は本当にお気の毒です。いましばらく耐え忍ぶしかないのかもしれませんが。

雪景色の中を真っ黒いSLが煙を噴き上げながら走る姿は本当に迫力があります。数年前までは、標茶止まりではなく、弟子屈町の川湯温泉駅まで行っての折り返しだったので、家の近くを通るのを私もよく見に行きました。こちらも復活してくれればなぁと思います。

子供の頃、まだ現役だったSLに乗った記憶があります。トンネルに入り、廻りの大人たちが慌てて窓を閉めていたのを覚えています。でも、よく使っていたはずの釧網本線弟子屈-釧路間にはトンネルは無いので、あれは帯広か札幌に行く時の根室本線だったかもしれません。

私たち北海道の人間は、列車に乗ることを「汽車(きしゃ)」に乗るという言い方をします。もともと鉄道の動力車が蒸気機関車だった頃の名残でしょう。動力がディーゼル化されてもそれは変わりません。都会の人が「電車」と言うのと対照的です。

中学・高校の頃はよく汽車に乗って弟子屈と釧路の間を往き来しました。特に釧路の高校に行くことになって釧路で下宿生活をするようになってからは、週末ごとに汽車で弟子屈の家に帰っていました。国鉄が民営化されたのが1987年ですから、その10年ほど前の頃です。当時も北海道の鉄道は赤字だったのでしょうが、それでも汽車に乗っている人はそこそこいました。釧網本線も3両編成ぐらいはあったと思います。まだ標津線も廃線になる前で、釧路から出た急行は標茶で標津線の切り離しがありました。
私も今では釧網本線に乗る機会がほとんどありませんが、2年ほど前、冬に札幌に行く用事があって、冬道なので車で行くこともためらわれ磯分内駅から利用しました。1両だけのワンマン運転でしたが、意外と釧路に通う高校生が乗っていました。釧路の病院に通うお年寄りなどもいて、今でも大切な交通機関なのです。そう、その時も偶然SL冬の湿原号が入線してくるのを釧路駅で見かけました。

山田洋次監督の「遙かなる山の呼び声」(1980年公開)という映画があります。高倉健さん、倍賞千恵子さん、吉岡秀隆さん主演で、中標津の酪農農家を舞台にした心温まる映画です。ネタバレになるので詳細は省きますが、映画の最後に真冬の汽車でのシーンがあります。設定では網走行きの「急行大雪」なので石北本線のはずですが、撮影されたのは釧網本線です。車窓から「てしかが」の駅名看板がばっちり見えるのです。(なお、弟子屈駅は1990年に駅名が摩周駅にかわっています。)

廃線でなくなった標津線の上武佐駅も映画の途中で出てきます。観光地ではなく、ごく日常の北海道の風景の中で物語は進みます。同じ山田監督の「幸福の黄色いハンカチ」(1977年公開)と併せて北海道が舞台の素晴らしい映画です。

昨年は南弟子屈駅が廃止になりました。北海道のローカル線はどこも赤字で、存続が危ぶまれる状況です。もともと、人口密度が低く、冬の気象条件も厳しいので維持費も掛かることから営業的には厳しいことはわかっていたはずで、なぜ民営化の時に北海道だけに分割したのかと疑問に思います。

最後に明るいニュース。JR北海道はSL冬の湿原号のリニューアルを決定したとのこと。

SLは、車両そのものの維持管理はもとより、それを運転・管理する人材も不可欠で、そのためにはとにかく継続していかなければならないとのこと。日本でも数少ないSLの運行を、これからも続けて欲しいと思います。

雪と寒さ

この冬は雪が少なく、その分厳しい寒さが続いています。弟子屈町は年末年始、ほとんど雪がありませんでした。

画像は年末の900草原駐車場にいる牛さんです。

雪がめったに降らないところの人は意外に思うかもしれませんが、このあたりではお天気が雪になると暖かいと感じます。冬は晴れている方が放射冷却で気温は下がるからです。人の感覚は不思議なもので、連日最低気温が氷点下20度なんて日が続いた後に、雪空となり気温が氷点下10度とかで、ああ、今日は暖かいなぁとなります。

年が明けてからやや降りはしたものの、依然として少雪であることにかわりありません。年末からは最低気温が氷点下20度くらいの日が続き、我が家の温度計では1月2日に最低気温氷点下26度を計測しました。知り合いの設備屋さんは今年の正月は休めなかったと言っていました。あちこちで水道管が凍結して修理に追われたそうです。最近の家は普通に住んでいれば水道管が凍結するようなことはありませんが、古い家はそうもいかないようです。
よく雪の無い地方からいらしたお客様に、「どれくらい雪が降るんですか、屋根の雪下ろしとかするんですか?」と聞かれます。北海道=雪国というイメージが強いのでしょう。でもこのあたりは北海道でも太平洋側なので、日本海側に比べると雪は多くありません。もちろん、屋根の雪下ろしをすることもありません。たいがいさらさらの粉雪なので、一時的に屋根の上に積もってもやがて風で飛ばされて無くなります。

一般に寒気が南下し、西高東低の冬型の気圧配置になると、日本海側は雪となりますが、太平洋側は晴れます。この冬は12月初めからその傾向が続き、岩見沢のあたりは記録的な大雪になっていると連日ニュースでやっていて、大変だなぁと思っていました。

それにしても、雪は年々少なくなっているような気がします。子供のころ、冬休みの間は毎日のようにスキー場に行ってスキーをしていました。そのスキー場も今は営業を止めてしまっていますが、かつてのゲレンデだった斜面を見ていてもここ数年は滑れるほどの雪がありません。そこで気象庁のデータを調べてみました。

グラフは記録のある1962年以降の北海道太平洋側の積雪量です。やはり減少傾向なことがわかります。北日本全体のデータもみましたが、減少傾向は同じでした。地球規模のことなので、たかだか60年ほどの期間で判断するのが適切なのかどうかわかりませんが、あるいは温暖化と関係しているのかもしれません。

年に数回、激しい暴風雪に見舞われます。雪が降るだけでなく強風が伴い、視界はホワイトアウト、道路には吹きだまりが出来て、下手をすると立ち往生してしまいます。今年はまだありませんが、必ずあるはず。
そんな大荒れの天気で、舞台を十勝地方とした物語に直木賞作家・佐々木譲さんの「暴雪圏」があります。さすが北海道出身で中標津にお住まいの佐々木譲さんだけあって、状況の描写がとてもリアルです。

とにかく、吹雪いたら外出せずに家に居ることが大事、誰もいないところで雪に閉じ込められたら命取りになります。

北海道はその寒さゆえ、暖かい時期ばかり注目されがちですが、冬は冬で美しい光景が楽しめます。このあたりでは広大な牧草地に無垢の雪原が広がり、その清らかで雄大な美しさは素晴らしいです。また、冷え込んだ朝、樹氷が朝日を浴びてキラキラと輝く様もとてもきれいです。今はコロナの影響でなかなか北海道を旅行するのも難しい状況ですが、冬ならではの北海道の景色も魅力いっぱいなのをお伝えできればと思います。

「疎」

朝食の後、毎日40~50分ほどお散歩をしています。今の季節は路傍にフキノトウや福寿草、タンポポが咲き始めているのを眺め、増えてきた鳥の声を聞きながら春を感じています。ウグイスの初鳴きも一昨日ありました。ただ、そのお散歩中に他の人と会うことはありません。今が特別なわけではなく、いつものことです。なにせ人口密度が低いのです。通勤する人が乗る車と2,3台すれ違うくらいです。

東京の大学に進学し、最初に朝の満員電車に乗ったときのことを今でも覚えています。とにかくぎゅうぎゅう詰めで、それまで人とそういう接触をしたことがなかったので、かなり衝撃的でした。ひどく全身に力が入り、電車を降りたときは疲れてぐったりしていました。しかし、慣れとは恐ろしいものでやがてそれをやり過ごす術を身につけました。私の場合は、文庫本を読んでその世界に没入し、その他の感覚を遮断することでした。ですから、電車の中ではかなりの集中力で読書ができました。

満員電車と似たような状況になりそうなのがエレベーターでしょうか。それにしても、弟子屈町には3階建ての役場庁舎と4階建ての農協ビルに一基づつあるだけで、私はそれらに乗ったことがありません。

会社以外でもっとも他の人に接近するのが、銀行かスーパーです。でも、銀行も最も混む年金支給日に行っても、キャッシュディスペンサーに並んでいるのはせいぜい3,4人です。スーパーも私が行く夕方はそれほど人は多くありません。

北海道はコロナウィルスの感染者が比較的多いことになっていますが、実はそのほとんどが札幌周辺です。北海道は14の振興局という行政区分に分かれていて、感染者の数もその区分ごとに発表されています。弟子屈町は「釧路総合振興局」で、1市・6町・1村で構成されていて、面積はおよそ茨城県と同じくらいの広さです。そこでの感染者はこれまでのところ、19人です。そのほとんどが釧路市周辺の医療関係者で、しかも4月16日を最後に感染者は出ていません。私の知る限り、弟子屈町でもまだ感染者はいません。

今回のコロナ禍がまだ収束した訳ではありませんが、ネット上で複数の「アフター・コロナ」、「ポスト・コロナ」の記事を見かけます。それらのほとんどが主張しているのが、テレワークなどによる会社に行かない仕事の仕方が増えるだろうといくことです。過疎化の進む田舎に住む身として、やはり大都市への過度の集中は是正されるべきだと思います。

実際、ネット回線さえあれば仕事が出来るとのことで、北海道に移住されてくる方がこれまでもいましたし、最近は首都圏の会社の機能を少し分散させる意味合いでこちらに拠点を作るという方もいます。

とにかく、「密」とは真逆の北海道です。まだまだ人を受け入れる余地は残っています。

水がいっぱいの贅沢

道東は新緑がまぶしい季節を迎えています。牧草地のタンポポも満開です。今朝はカッコウの声も聞こえました。

弊社の工事部門は、別海町のさる農家さんで水井戸掘削の工事をしています。

昨年の地震時の停電で牛を飼っている農家さんはとても大変だったと聞きます。朝ドラの「なつぞら」では牛の乳を手作業で搾っていますが、今の時代はもちろん電動の搾乳機を使うわけで、停電により乳が搾れず、また搾ったとしても冷やして保存することが出来なかったり、機器を温水で洗浄できなかったりと多くの牛乳を破棄することになったようです。そんなこともあって、非常用電源を導入する農家さんが増えているようですが、同時に水道が止まったときに備えて自前の水を確保したいとのことで、今年は水井戸掘削の依頼を複数いただいています。

道東はとても水が豊富です。とくに弟子屈町は屈斜路湖と摩周湖の二つのカルデラ湖という大きな水瓶を持っていますし、町全体がボウルのような形状で、地下水がたっぷりあります。なかでも南弟子屈から標茶町市街地にかけての釧路川沿いは、水井戸を掘削すると自噴します。電動のポンプがなくても水が勝手に地上に出てくるのです。

こちらは「コージィベール摩周南」のセンターハウス前庭です。自噴の井戸水が出ています。下に見えている緑はクレソンです。このように自噴の井戸水があればクレソンやわさびなどを栽培できるし、魚を飼うこともできます。水温は年間を通して7℃か8℃くらいで一定です。もちろん飲んでもおいしい軟水です。そんなおいしいミネラルウォーターがどんどんあふれ出ているのですからもったいないというか、なんとも贅沢です。

世界的にはこれからの時代、水不足が深刻な問題になるとのことですが、道東にいればそんな心配は不要です。弊社では水井戸付きで土地をお渡しすることも可能です。水がいっぱいの贅沢な生活はいかがでしょうか。

道東の春

連休の最後に襟裳岬に行ってきました。母の生家が大樹町で、叔母が広尾に嫁いでいたので広尾までは子供の頃何度も行ったことがあったのですが、その先の黄金道路と襟裳岬は初めてです。黄金道路はそれを造るのに多額の費用がかかったことから名付けられたそうですが、海岸に迫る断崖絶壁に延々とトンネルを穿っていて、本当によくこんなところに道路を造ったものだと思いました。
さて、襟裳岬です。どうしても森進一さんの歌声が頭の中でリフレインします。「襟裳の春はなにもない」ことになっていましたが、周辺で風力発電の風車がブンブン回っているのが印象的でした。なんでもこのあたりが日本で一番風の強いところだそうです。そういえば「知床旅情」とか「霧の摩周湖」とか、北海道は有名なご当地ソングが多いことに気がつきました。北の最果ての地は歌になりやすいのでしょう。

全然話は変わりますが、家の近所で卵を抱えている丹頂鶴がいます。町道からすぐのところで、最初に気がついたのが4月20日ころですからもう3週間ほどになります。キツネもいるから襲われないのだろうかと心配ですが、無事孵ってほしいものです。今朝はツツドリの声を聞きました。ということはもう少しでカッコウもやって来るはず。

事務所の桜も咲いて、昨日はお花見をする予定でしたが、気温が一桁なので中止しました。なかなかすんなりと暖かくならない道東です。

北の生き物たち

甥と姪のいる小学生のバレーボールチームが全道大会で3位になりました。よく頑張りました。で、そのチームの名前が「弟子屈クッシーズ」といいます。平成も終わろうとしていますが、クッシーをリアルタイムで知っている人は間違いなく昭和の人です。
イギリス北部スコットランドのネス湖にいるとされた未確認の生物が「ネッシー」ですが、「クッシー」はその屈斜路湖版です。最初に騒ぎが起きたのは私が小学生の頃で、目撃情報が多く寄せられ、テレビ局が連日やってきました。でも当時の屈斜路湖はほぼ「死の湖」でした。というのも酸性が強く、魚もほとんどいなかったのです。現在は中性化が進み、放流されたマス類も増えて、釣りを楽しむ人も多く見かけるようになりました。ただ今も川湯の温泉街から屈斜路湖に流れ込む川の水は強酸性の温泉で、どうして中性化したのか、詳しいメカニズムはわかっていないようです。とにもかくにも一時のブームのせいで屈斜路湖畔の道道には「クッシー街道」の看板があります。地元の人でこの道をそう呼ぶ人はあまりいないと思いますが。

冬の季節、屈斜路湖の主役は白鳥です。釧路川の始まりである「眺湖橋」のあたりからコタン、砂湯にかけて見ることが出来ます。なんだか人慣れしているみたいで、結構近くに行っても逃げたりしません。

白鳥は弟子屈町のシンボル的な存在で、国道の弟子屈町への入り口にも白鳥のイラストのサインがあります。これは国道391号線、標茶町と弟子屈町の境にある標識です。
春と秋の渡りのシーズンには町内のあちこちで羽を休める白鳥を見かけます。丹頂鶴と白鳥、日本でももっとも大きい部類の野鳥が多く見られる道東です。

これは丹頂鶴の足跡。とっても大きいです。

クッシーを見ることは難しそうですが、弟子屈町周辺ではいろいろな野生動物を見ることが出来ます。エゾシカやキタキツネは車を運転しているとしょっちゅう出くわします。私の家にある鳥のえさ台にはエゾリスが時々やってきます。珍しいところでは、エゾモモンガやシマフクロウ、オジロワシなども見られます。自然いっぱいの道東にぜひお越しください。

モール泉

秋から掘削していた現場で昨年末、無事温泉が湧出しました。驚きはその温度、なんと95度もあります。弊社でこれまで掘削してきた温泉の中でも最高に熱い温泉です。色はやや褐色で、いわゆるモール泉と思われます。

掘削し温泉が出ることがわかってまずするのが、「揚湯試験」と「成分分析」です。揚湯試験は、揚湯量を何段階かに分けて汲んでみて、それぞれの動水位の変化からその井戸での適切な揚湯量を見極めるためにします。それから、その温泉がどういう泉質なのかを調べるためにするのが成分分析で、弊社ではいつも「北海道立衛生研究所」に分析をお願いしています。今回も遠路はるばる札幌からお越しいただき、温泉を採取してもらいました。

弟子屈町は広い範囲で温泉が湧出していますが、その泉質にはいくつか地理的特徴があります。まず他と違い特異なのが川湯温泉の強酸性硫黄泉です。すぐ近くで今も噴煙を上げている硫黄山(アトサヌプリ)の影響で、硫黄の香りが強く、pHは2以下の強酸性、色は少し白濁し青みがかって見えます。でも、こうしたお湯が湧いているのは川湯温泉街の限られた場所だけで、弟子屈町のその他の温泉はどちらかというとアルカリか弱アルカリで、あまり成分の多くない単純温泉が主流です。

弟子屈町全体でもう一つ言える傾向は、町の北側の温泉は無色透明であるのに対し、南の方に行くにしたがって微褐色の色がついている温泉が多くなるということです。その微褐色の色が何に起因するかというと、植物などが長い間バクテリアなどに分解されて出来た腐植物質で、具体的にはフミン酸やフルボ酸などです。これが「モール泉」と呼ばれています。弟子屈町の褐色の温泉が、腐植質あるいはフルボ酸由来であるということは、北海道立衛生研究所の方々の論文に詳しくあります。上記道立衛生研究所のサイトで「弟子屈町中央部に湧出する温泉に認められた微褐色の着色要因」という文章をご覧ください。(トップページ以外へのリンクは手続きが必要なので、やめました。トップページから文言を検索するとすぐに見つかります。)
弊社で掘削した温泉の成分分析は毎回決まって北海道立衛生研究所にお願いするので、弟子屈町全体の温泉の傾向を把握されているのでしょう。
モール泉の詳しい解説についても、やはり道立衛生研究所の研究員の方が書かれている「北海道遺産モール温泉」をご覧ください。

私の住まいがある弟子屈町南部の熊牛原野に出る温泉もモール泉です。色がついているのが画像でわかるでしょうか。この温泉の成分分析書が以下のものです。

赤線で囲った部分に「微褐色澄明」とあります。澄明はあまり見慣れない言葉ですが「ちょうめい」と読み、水が透き通っている様を表現するようです。しかし、この分析表にはどこにも腐植物質のこともモール泉とも書かれていません。温泉の分析の方法や泉質の分類方法は環境省が定める「鉱泉分析法指針」に依るのですが、そこではモール泉という泉質の分類が無いのです。

あらためてこれまでの温泉分析書を見ていたら、平成9年以前の分析書には腐植質の記述は有りませんが、それ以後は「腐植質:検出せず」とか「腐植質:○○mg/kg」とかの記述が有るので、そこで指針が変わったのかもしれません。熊牛の分析書は平成4年でだいぶ昔です。

褐色の水というと思い出すのがイギリス北部スコットランドの川の水です。もう四半世紀も前のことですが、スコットランドにウィスキーの蒸留所巡りの旅をしに行ったことがあります。スコッチウィスキーの本を読んでいると、スコットランドの川の水はウィスキーと同じような褐色の色をしているとあり、実際に行ってみるとそうでした。

これはPitlochryという町のBlair Atholという蒸留所近くのダムの画像です。流れ落ちる川の水が緑褐色をしているのがわかるでしょうか。ピートと呼ばれる泥炭層を流れてくるのでこんな色になるとのこと。泥炭も植物が炭化したものですから、モール泉と色の由来は一緒だと言えると思います。釧路川の水もずっと下流の湿原の方に行くと茶色い色のところがあります。スコットランドの風景はとても道東に似ていると思いました。
横道にそれますが、当時はまだデジカメが普及する前で、この写真はエクタクローム(ポジフィルム)で撮影したのを今回スキャナーでデジタル化したのですが、さすがに古めかしい感じです。

近所に住むある女性は、越してきてモール泉に入るようになってから、冷え性が治ったと言っていました。それまでは寝る前に水道を沸かしたお風呂に入っても、布団に入る頃には手足が冷たくなりなかなか寝付けなかったけど、モール泉のお風呂に入るようになってからはそれがなくなり、体中ぽかぽかで布団に入った途端に寝付けるようになったそうです。その他、肌がつるつるになるという人もいます。毎日入るのに適した優しい泉質で、とても人気があると言えます。そして我が家のネコちゃん達も大好きです。入るのではなく飲泉のほうですが、私がお風呂に入っていると必ずやってきてお湯を飲んでいきます。人にもネコにも大人気のモール泉なのでした。

温泉街の再生

今年も10月中旬に「温泉保護・管理研修会」に行ってきました。研修会は例年、東京の会場で二日間座学があり、三日目に希望者のみ関東近郊の温泉施設を見に行くというパターンなのですが、今回は初めて三日目の現地視察に参加しました。東京駅から新幹線「のぞみ」に乗って40分あまり、東京の奥座敷ともいわれる熱海の街です。駅前には足湯があります。「家康の湯」というそうです。こういうネーミングは良いですね。すぐにその街の歴史に入っていくきっかけになります。

地元の町歩きガイドの方の案内で、熱海の歴史に触れながら迷路のような坂道の続く街を歩き回りました。こちらは熱海七湯のひとつ、「風呂の湯」です。さすがに温泉の街、あちこちに泉源があって白い湯気が上がっています。

こちらはかつて遊郭だった建物群です。赤線が廃止になってから60年以上ですから、相当古い建物ですが、桜で有名な糸川の近くにこうした建物がたくさん残っています。

多くの地方都市や温泉街が活力を失っていく中で、熱海も例外にもれず客足は減る一方で、一時は自治体が財政再建団体になりかけたこともあるそうですが、近年入り込み客数がV字回復しているとのこと。若い人が主導するまちづくりにより、商店街に活気が戻り、同時に観光客も戻ってきたそうです。実は研修の二日目に、そのきっかけを作ったまちづくり団体の方のお話もありました。どんなことをしてるかはこちらのサイトをご覧ください。

かつては寂れてシャッター街になっていたという熱海銀座の商店街がこちら。空き店舗が大幅に減ったそうです。

熱海というと小津安二郎監督の「東京物語」のイメージがあります。田舎から上京してきた老夫婦が、子供達に厄介払いのようにして行かされる先として熱海が出てきます。そこでは若い団体客が夜中までドンチャン騒ぎをしていて、老夫婦はなかなか寝付けません。騒がしい落ち着かない宿といった、どちらかというとマイナスのイメージの描かれ方をしていました。実際、かつて盛行を極めた温泉宿は同じようなかんじだったところが多いのではないでしょうか。団体客がやってきて、大広間でお膳を並べて宴会をし、部屋に戻っては麻雀・・・といったパターンです。
しかし、人々はいつしかそうした旅をしなくなりました。会社単位などの団体旅行は次第に減ってゆき、友人や家族との個人の旅行に移行していきました。おそらくかつての団体旅行客を相手にするサービスでは個人旅行のお客さんは満足せず、その変化について行けなかった宿は衰退していきました。熱海も含め日本中の多くの温泉街がそうしてお客さんを減らしていきました。弟子屈町も同様です。

人口減少と少子高齢化、大都市への一極集中で、どこの地方都市も先行きに明るさを見いだせない時代です。しかし、今の熱海での取り組みをみていると、決して諦めてはいけない、諦めては終わりだと感じました。そして、世の中は絶えず変わっていくものなので、それに対応していく努力を忘れてはいけないと思いました。だからといって、すぐに何をどうすれば良いのか、簡単なことではありませんが。